2025/03/10 14:07

◎蔦屋重三郎のお墓はどこにある?

蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう、1750年~1797年)は、江戸時代に活躍した出版人で、浮世絵や黄表紙などの出版を通じて喜多川歌麿や東洲斎写楽といった才能を見出し、「江戸のメディア王」とも称される人物です。2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で横浜流星さんが演じることで注目されています。お墓に関する情報は、彼の生涯や歴史的背景と深く結びついており、以下に詳しくお伝えします。


1. お墓の場所と現状

蔦屋重三郎のお墓は、元々彼の菩提寺である東京都台東区東浅草の「正法寺(しょうほうじ)」にありました。正法寺は日蓮宗の寺院で、1601年に創建された歴史ある場所です。しかし、残念ながら蔦屋重三郎の墓そのものは、関東大震災(1923年)と第二次世界大戦の戦災によって失われてしまいました。現在、元の墓石や墓所は残っておらず、跡形もなくなっています。

ただし、蔦屋重三郎を偲ぶために、現代では以下のものが正法寺に建立されています。


<蔦屋家の墓碑>

復刻されたもので、彼の功績を後世に伝える役割を果たしています。碑には蔦屋重三郎の本名「喜多川柯理(きたがわ からまる)」が刻まれています。


<重三郎母子顕彰碑>

蔦屋重三郎とその母を称える碑で、彼と親交のあった文人、石川雅望(いしかわ まさもち)や大田南畝(おおた なんぽ)による碑文が刻まれています。

これらは、元の墓が失われた後に建てられたもので、訪れる人々が彼の生涯を思い起こすための記念碑となっています。


2. お墓が失われた背景

蔦屋重三郎が亡くなったのは寛政9年(1797年)で、享年47歳(満年齢では46歳)。死因は「脚気(かっけ)」とされており、当時白米中心の食生活によるビタミンB1不足が原因で流行した病気です。彼の墓は正法寺に埋葬され、一族の墓もそこにあったとされます。しかし、江戸時代から明治、大正を経て、関東大震災による壊滅的な被害と、その後の戦災で正法寺の墓地が大きな打撃を受けたため、蔦屋家の墓も含めて多くが失われました。明治時代の文献には墓の存在が確認されていますが、現在はその物理的な遺構は残っていません。

◎蔦屋重三郎とはどのような人物だったのか?

卓越したビジネスセンスと芸術への理解を活かし、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった天才浮世絵師を見出し、「江戸のメディア王」とも称されるほどの影響力を持った蔦屋重三郎ですが、ここでは彼の生涯や人物像、功績などを詳しく見てみます。


●蔦重(つたじゅう)の生涯

1. 幼少期と出自

本名「喜多川柯理(きたがわ からまる)」。「蔦屋重三郎」は出版業での屋号で、通称として使われました。

宝暦元年(1750年)、江戸の吉原(現在の東京都台東区浅草付近)で生まれました。吉原は当時、遊郭として栄えた場所で、庶民文化が花開くエリアでした。

出自は諸説ありますが、吉原の商家「蔦屋」の養子となった可能性が高いです。実家が貧しかったとも言われ、養子縁組で蔦屋の跡を継いだとされています。


2. 出版業への進出

20代前半で吉原大門近くに「蔦屋」を構え、安永年間(1772年~1781年)頃から本格的に出版業を始めました。当初は貸本屋や古本屋として活動しつつ、次第に自ら版元として浮世絵や書籍を出版するようになりました。

屋号「蔦屋」の由来は、蔦の葉を模したトレードマークで、彼の出版物にはこのマークが刻まれています。浮世絵や江戸文学の黄金期を支え、現代でも美術史や文化史で高く評価されています。


3. 幕府との対立と「寛政の改革」

寛政2年(1791年)、蔦屋は幕府の老中・松平定信による「寛政の改革」の標的となりました。彼が出版した黄表紙が風俗を乱すと見なされ、特に山東京伝黄表紙『箱入娘面屋人魚』、洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』が問題視されました。この結果、蔦屋は財産の半分を没収され、京伝は手鎖(てじょう)50日の刑に処されました。

蔦屋の出版物は吉原や遊郭文化を題材にすることが多く、幕府の厳格な統制方針と衝突したのです。しかし、この事件後も彼は活動を続け、影響力を保ちました。


3. 晩年

晩年は脚気(ビタミンB1欠乏症)に悩まされ、寛政9年(1797年)5月31日、47歳で早逝しました。当時の白米食による健康問題が影響したとされます。

正法寺に葬られ、戒名は「幽玄院義山日盛信士」。


●蔦重(つたじゅう)の主な功績

1. 浮世絵と文化の革新者

喜多川歌麿との出会い

蔦屋は歌麿を起用し、美人画や吉原の遊女を描いた浮世絵で大成功を収めました。特に「婦人相学十躰」や「吉原細見」シリーズは人気を博し、歌麿をスター絵師に押し上げました。


東洲斎写楽の発掘

写楽の役者絵を出版したのも蔦屋です。写楽の作品はわずか10か月で140点以上が発行され、その斬新な表現で今も評価されていますが、当時は商業的に失敗したとも言われます。蔦屋は写楽の才能を見抜き、リスクを冒して支援した点で先見の明が光ります。


<出版スタイル>

蔦屋は単なる版元に留まらず、企画やデザインにも関与し、現代のプロデューサーに近い役割を果たしました。彼の出版物は芸術性と大衆性を兼ね備え、江戸庶民の娯楽文化を豊かにしました。


2. 黄表紙と戯作の推進

黄表紙(軽妙な挿絵入り小説)を多く出版し、山東京伝(さんとう きょうでん)ら戯作者を支援しました。例えば、京伝の「箱入娘面屋人魚」は蔦屋の代表作の一つで、ユーモアと風刺に富んだ内容が人気でした。

これにより、江戸の庶民文学が花開き、出版文化が一層発展しました。


●蔦重(つたじゅう)の人物像と性格

<ビジネスマンとしての才覚>

蔦屋は商業的な成功を追求しつつ、芸術への情熱を持っていました。歌麿や写楽のような才能を見抜き、投資するリスクを取れる決断力は、彼の鋭い洞察力を示します。


<文化人との交流>

大田南畝(蜀山人)や石川雅望ら文人と親交があり、俳諧や狂歌にも造詣が深かったと言われます。教養人としての側面も強く、単なる商人を超えた存在でした。


<自由奔放な生き方>

吉原育ちで遊郭文化に親しみ、幕府の規制にも屈しない姿勢から、反骨精神と自由な精神を持った人物とされます。大河ドラマのタイトル「べらぼう」(江戸弁で「途方もない」の意)は、彼の大胆さを象徴しています。


◎花の井(五代目瀬川)との関係性はどうだったのか?

蔦屋重三郎と花の井(五代目瀬川)の関係については、史実と2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」での設定を分けて考える必要があります。


1. 史実における関係

史実では、蔦屋重三郎と花の井(五代目瀬川)が直接的な関係を持っていたことを示す明確な記録は残っていません。蔦屋重三郎は江戸時代の著名な版元(出版者)であり、吉原遊郭のガイドブック『吉原細見』を刊行するなど、遊郭文化と深く関わっていました。一方、花の井こと五代目瀬川は、吉原の老舗妓楼「松葉屋」に所属し、美貌と教養で名を馳せた実在の花魁です。彼女は1775年(安永4年)に盲目の高利貸し・鳥山検校(とりやまけんぎょう)に1400両(現在の価値で約1億4000万円)で身請けされたことで知られています。


蔦屋重三郎が吉原で生まれ育ち、遊郭文化に精通していたことから、五代目瀬川のような著名な遊女と何らかの接点があった可能性は否定できません。しかし、具体的な交流や個人的な関係を示す史料は見つかっていないため、歴史的には二人の関係は不明とされています。


2. 大河ドラマ「べらぼう」での関係

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、蔦屋重三郎(演:横浜流星)と花の井(五代目瀬川、演:小芝風花)は幼なじみという設定で描かれています。ドラマのストーリーでは、二人は共に吉原で育ち、互いを支え合う深い絆で結ばれた存在として登場します。花の井は蔦屋重三郎の良き相談相手であり、彼が版元として成功を目指す中で、吉原の再興という共通の目標に向かって協力する重要なキャラクターです。

ドラマでは、花の井が「五代目瀬川」の名跡を継ぎ、吉原を代表する花魁として名を馳せる一方で、蔦屋重三郎との関係に恋愛的な要素も暗示されています。しかし、遊女という立場から自由な恋愛が許されず、後に鳥山検校に身請けされることで二人の関係に試練が訪れる展開が予想されます。この設定は史実に基づくものではなく、ドラマのための創作と考えられます。


◎蔦屋重三郎の墓碑がある正法寺への行き方は?

正法寺(しょうほうじ)へのアクセスについてお伝えします。所在地は東京都台東区東浅草1丁目1-15で、日蓮宗の寺院です。蔦屋重三郎の菩提寺として知られ、江戸三大毘沙門天の一つである毘沙門天が祀られています。以下に、主な交通手段と地図を含めて詳しく説明します。


1. 電車でのアクセス

正法寺は最寄り駅から徒歩圏内にあり、いくつかの路線が利用可能です。

・東武伊勢崎線・東京メトロ銀座線・都営浅草線「浅草駅」

  −徒歩約12~15分(約1km)。

  −浅草駅から出て、江戸通りを北上し、言問橋西交差点を右折して今戸(吉野)通りに入ります。そのまま直進し、浅草7丁目交差点を過ぎたすぐ先に正法寺があります。都立台東商業高校が目印です。


・東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」

  −徒歩約15~20分(約1.2km)。

  −南口から出て、南西方向に進み、吉原大門交差点を通過して今戸通りを南下すると到着します。


・つくばエクスプレス「浅草駅」

  −徒歩約18分(約1.4km)。

  −駅から西へ進み、言問通りを経て今戸通りに入るルートです。


2. バスでのアクセス

都営バスを利用すると、さらに近くまで行けます。

・浅草駅から

  −都営バス「東42-1 南千住駅西口行き」に乗り、「今戸」バス停で下車(約5分)。下車後、徒歩約2分。


・南千住駅から

  −都営バス「東42-2 東京駅八重洲口行き」または「東神田行き」に乗り、「今戸」バス停で下車(約6分)。下車後、徒歩約2分。

  −バス停からの道順: 今戸バス停から南に少し進むと、右手に正法寺のビルが見えます。


3. 車でのアクセス

・高速道路利用の場合

  首都高速6号向島線「駒形IC」から約8分。駒形ICを出て南東に進み、言問通りを経て今戸通りへ入ります。

  <駐車場>正法寺には駐車場が整備されており、数台停められるスペースがあります。ただし、お彼岸などの混雑時には満車になる可能性があるので、事前に確認すると安心です。


4. 徒歩での目印

正法寺は現代的なビル型の寺院で、伝統的なお寺の外観とは異なります。入口脇に「正法寺」と刻まれた石碑や、赤い柵、阿吽像が目印です。周辺には吉原大門や隅田川が近く、散策がてら訪れるのもおすすめです。


5. ご注意

春のお彼岸(3月17日~23日頃)に訪れるなら混雑が予想されるので、早朝や平日の訪問がスムーズです。

公共交通機関利用の場合、浅草駅周辺は観光客で賑わうため、時間に余裕を持った移動を。

駐車場が限られるので、車の方は事前に寺に電話で確認すると良いでしょう。


なお、正法寺には、蔦屋重三郎の墓所跡以外にも見どころがありまして、開運を祈願する「大毘沙門天」が祀られており、江戸時代から信仰を集めてきました。

また、現在、正法寺では蔦屋重三郎をテーマにしたイベントや取り組みも行われており、例えば2025年の大河ドラマに合わせて、JR東海ツアーズと連携した「蔦屋重三郎の限定重ね切り絵御朱印」の頒布が行われています(要予約)。お彼岸の時期に訪れるなら、こうした特別な体験も楽しめるかもしれません。


蔦屋重三郎の墓が現存しないため、直接お墓に手を合わせることはできません。それでも、正法寺の墓碑や顕彰碑の前で祈りを捧げることで、彼の功績や精神に思いを馳せることができます。お供え物としては、おはぎや花を持参し、静かに手を合わせるのが良いでしょう。ただし、正法寺はあくまで寺院なので、供養の際は寺のルールに従うことが大切です。今年(2025年)の春のお彼岸(317日~23日)に訪れるのも良いタイミングででしょう。お墓がなくても、彼の遺した文化遺産や正法寺の雰囲気を通じて、江戸時代の出版王に思いを寄せることができます。



「お知らせ・お役立ち情報」の正確性については万全を期しておりますが、その内容を保証するものではありません。また、「お知らせ・お役立ち情報」の利用(その利用に付随する場合も含みます)により利用者及び第三者が被った損害については、弊社は、損害賠償責任、営業損失補償責任その他法律上、事実上を問わず一切責任を負わないものとします。