2025/03/17 17:04

◎平賀源内(ひらがげんない)のお墓はどこにある?

平賀源内のお墓は、東京都台東区橋場2丁目にあります。具体的には、白鬚橋(しらひげばし)の西側、明治通りの歩道近くに位置しており、かつてこの地にあった総泉寺の墓地に葬られた場所です。現在、総泉寺は板橋区に移転していますが、平賀源内のお墓は元の場所に残され、国の史跡に指定されています。お墓は築地塀に囲まれた小さな一角にあり、木造の覆い屋に保護されています。隣には、源内の友人である杉田玄白が建てた碑もあります。


平賀源内は江戸時代中期の学者・発明家で、エレキテル(摩擦起電機)の復元などで知られています。安永8年(1779年)に殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢獄で病死した後、この地に埋葬されました。また、香川県さぬき市志度(しど)には、平賀家の菩提寺である自性院にも源内の墓所があり、こちらは妹の婿養子が建てたものとされています。ただし、一般的に「平賀源内のお墓」として知られているのは東京の橋場の方です。

◎平賀源内とはどのような人物だったのか?

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で安田顕さんのひょうきんな演技で改めてその人物に注目が集まる平賀源内は、江戸時代中期の多才な人物で、学者、発明家、戯作者、蘭学者、実業家など多岐にわたる顔を持つ人物として知られています。彼の生涯は波乱に満ちており、好奇心旺盛で革新的なアイデアを次々と生み出した一方で、破天荒な性格が災いし、最期は悲劇的な結末を迎えました。以下に、彼の生涯と功績を詳しく解説します。


●平賀源内の生涯

1. 幼少期と出自

1728年(享保13年、諸説ありでは1729年)に高松藩(現在の香川県さぬき市志度)で生まれました。

平賀家は代々高松藩に仕える下級武士の家柄。幼い頃から聡明で、漢学や本草学(植物・鉱物などの自然研究)に興味を示しました。父が早くに亡くなったため、家督を継いで藩に仕えましたが、武士としての生活に満足せず、学問と実践に情熱を注ぎました。


2. 江戸での活動

<20代後半>

高松藩主・松平頼桓(よりたけ)に認められ、本草学を学ぶため長崎へ遊学(1752年頃)。ここでオランダ語や西洋科学に触れ、蘭学の基礎を築きます。


<30代>

藩の許可を得て江戸に出て、学者や医者と交流。杉田玄白や中川淳庵らと親交を深め、蘭学や科学技術の研究に没頭します。


<40代>

高松藩を辞め、浪人として自由に活動を開始。鉱山開発、戯作(滑稽本)の執筆、発明品の製作など、多分野で才能を発揮。


<最期>

安永8年(1779年)、江戸で知人との口論から刀傷事件を起こし、相手を死なせてしまいます。この事件で小伝馬町の牢獄に投獄され、1780年1月24日に病死(享年51歳)。獄中で病に倒れたとも、牢内で自殺したとも言われています。


●平賀源内の功績

平賀源内は「江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも称されるほど、多方面で革新的な業績を残しました。以下に代表的な功績を挙げます。


1. エレキテル(摩擦起電機)の復元

オランダから伝わった静電気発生装置「エレキテル」を日本で初めて復元(1776年頃)。これは、西洋科学技術を日本に紹介した象徴的な出来事です。当時としては驚異的な発明で、庶民にも公開され、科学への関心を高めました。現代では「日本初の電気機器」とも称されます。


2. 本草学と博物学の発展

動植物や鉱物を研究する本草学に精通し、1763年に日本初の物産展「物産会」を開催。全国から集めた産物を展示し、知識の普及と交易促進を図りました。日本各地の自然資源を体系的に記録し、後世の博物学や産業発展に寄与。


3. 鉱山開発と実業

秩父(埼玉県)や秋田(秋田県)で鉱山開発に着手。石綿(アスベスト)の採掘や耐火レンガの製造を試み、産業振興に貢献。経済的自立を目指す藩や幕府に技術を提供し、実践的な科学者の側面を示しました。


4. 戯作(文学)とユーモア

風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」「根南志具佐(ねなしぐさ)」など、滑稽本(現代のユーモア小説に近い)を執筆。平賀源内は「風来山人(ふうらいさんじん)」のペンネームで知られ、庶民の娯楽文化に寄与。

ユーモアと風刺を織り交ぜ、当時の社会を軽妙に描きました。


5. その他の発明・アイデア

<寒暖計>

 西洋式の温度計を製作。


<広告コピー>

土用の丑の日」というキャッチフレーズを生み、日本初の広告クリエイターとも言われます。


<オランダ語学習>

蘭学の先駆者として、西洋知識の導入に一役買いました。


●平賀源内の人物像

性格は好奇心旺盛で行動的だが、気性が激しく破天荒と言われています。友人の杉田玄白は「源内は才気にあふれるが、扱いにくい男」と評しています。蘭学の発展や科学技術の普及に貢献し、明治以降の近代化の礎を築いたとされますが、商業的な成功には恵まれず、晩年は貧困に苦しんだと言われています。現代では「江戸時代のマルチタレント」「奇才」として再評価され、エレキテルは教科書にも登場する有名なエピソードです。


平賀源内は、江戸時代にあって西洋科学と日本文化を融合させ、多分野で革新的な足跡を残した人物です。エレキテルの復元や物産会の開催、戯作の執筆など、彼の功績は多岐にわたり、現代でもその名を知る人が多いです。しかし、波乱の人生と悲劇的な最期は、彼の天才性と人間的な脆さを象徴しています。

◎蔦屋重三郎や田沼意次との関係性はどうだったのか?

平賀源内と蔦屋重三郎、田沼意次との関係は、江戸時代中期の文化や政治、経済の交差点で興味深い接点を持っています。それぞれの関係とエピソードを以下に詳しく解説します。


●平賀源内と蔦屋重三郎との関係

平賀源内(1728-1780)と蔦屋重三郎(1750-1797)は、江戸時代の文化を支えた重要人物で、特に出版文化において接点がありました。源内は発明家・学者・戯作者として多才な活躍を見せ、蔦屋重三郎は出版業者として浮世絵や書籍をプロデュースし、江戸のエンターテインメントを牽引しました。源内は重三郎より約20歳年上で、重三郎が出版業を始めた初期に協力をしています。


<「吉原細見」の序文>

二人の最も明確な関係は、1770年代に蔦屋重三郎が関わった「吉原細見」(吉原遊郭のガイドブック)において、平賀源内が序文を執筆したことです。

若手編集者だった重三郎は、24歳頃(1774年頃)に「吉原細見」の編集に抜擢され、内容に付加価値をつけるため、当時すでに有名人だった源内に序文を依頼。

源内は「福内鬼外(ふくちきがい)」というペンネームで序文を寄せ、遊女の美しさの基準(「一に目、二に鼻すじ、三に口」など)をユーモアたっぷりに記述。これが話題となり、重三郎の出版キャリアの第一歩を後押ししました。この協力は、重三郎のマーケティングセンスと源内の知名度・文才が結びついた好例で、江戸の出版文化に新たな風を吹き込みました。


史実では二人が直接会った記録は明確ではありませんが、源内が江戸で活動していた時期に、重三郎が吉原で貸本屋を営み始めたタイミングが重なるため、共通の知人(例: 蘭学者や文人)を通じて依頼が成立したと考えられます。


源内が1780年に獄中死した時点で、重三郎はまだ出版業の基盤を築いている段階だったため、この『吉原細見』の序文が唯一の明確な協業とされています。その後、重三郎は喜多川歌麿や東洲斎写楽らと大成功を収めますが、源内との関係は短期間に終わりました。


●平賀源内と田沼意次との関係

平賀源内と田沼意次(1719-1788)は、江戸中期の殖産興業政策を背景に深い関係を持っていました。田沼は老中として経済重視の政策を推進し、源内はその政策に沿った技術や知識を提供する形で協力。源内の革新的なアイデアは、田沼の庇護のもとで花開いたと言えます。


<鉱山開発と殖産興業>

源内は田沼の支援を受けて、秩父(埼玉県)や秋田(秋田県)での鉱山開発に着手。石綿(アスベスト)の採掘や陶器製造を試み、田沼の経済政策に貢献。


<エレキテルと物産会>

源内が復元したエレキテル(1776年頃)や、1763年に開催した日本初の物産会は、田沼時代(1767-1786)の自由な気風の中で実現。田沼はこうした活動を奨励し、幕府の財政強化に役立てようとしました。


歴史家の中には、源内が田沼に直接資金援助を求めた記録(例: 500両の融資を懇願)があったと推測する声もあり、二人が親密な関係だった可能性が示唆されています。

田沼意次が源内に資金を提供した際、源内が「日本の土で唐やオランダの金銀を取る」と提案したエピソードが残っています。これは源内の『陶器工夫書』に記された言葉で、田沼の殖産興業政策と一致するビジョンを示しています。

源内の事業(例: 火浣布の量産[燃えない布])は失敗に終わることも多かったですが、田沼は彼の才能を認め、支援を続けたとされます。この関係性は、田沼の進取の気性と源内の奇抜さが共鳴した結果と言えるでしょう。


◎平賀源内のお墓への行き方は?

平賀源内のお墓は、東京都台東区橋場2-22-2にあり、白鬚橋の西側、明治通りの歩道近くに位置しています。以下に、主な交通手段を使った具体的な行き方を詳しく説明します。


1. 電車でのアクセス

平賀源内墓への最寄り駅は、JR常磐線・東京メトロ日比谷線・つくばエクスプレス「南千住駅」です。

・JR常磐線・東京メトロ日比谷線・つくばエクスプレス「南千住駅」

 −徒歩約15分程度(約1km)。

 −JR常磐線または東京メトロ日比谷線の場合、西口(泪橋方面)へ向かいます。つくばエクスプレスを利用する場合は、B出口から地上に出てください。駅を出たら、目の前の大きな交差点(泪橋交差点)を渡り、明治通り(国道4号)を北方向(浅草方面)へ進みます。約800m(徒歩10分程度)、明治通り沿いを歩きます。途中、「南千住八丁目」や「清川二丁目」の交差点を通過します。白鬚橋西交差点の手前(橋の手前約50m)で、左側に小さな路地が見えます。ここが平賀源内墓への入口です。目印として、近くに「橋場二丁目」のバス停があります。路地を入るとすぐ、築地塀に囲まれた平賀源内墓が見えます。木造の覆い屋に保護されており、隣に杉田玄白が建てた碑もあります。


2. バスでのアクセス

南千住駅からバスを使うと、より楽にアクセスできます。都営バスを利用するルートです。

・南千住駅東口から

 −都営バス「草41系統 浅草雷門行き」または「草43系統 浅草寿町行き」に乗車し、「橋場二丁目」バス停で下車(約5分)。下車後、明治通り沿いを南に徒歩で50mほど(約1〜2分)。


3. 車やタクシーでのアクセス

白鬚橋西交差点のすぐ南側、明治通り沿い。

専用駐車場はありません。近くのコインパーキングを事前に調べておくと良いです。

タクシーの場合は、「平賀源内のお墓まで」または「橋場2丁目の白鬚橋西近く」と伝えると約5分で到着。料金は700~800円程度。


平賀源内墓は、築地塀に囲まれ、木造の覆い屋で保護されています。小さなスペースなので見逃さないよう注意。

白鬚橋や隅田川が近く、散歩がてら訪れるのもおすすめです。ただし、観光地化されておらず、案内板が少ないので地図アプリ(Google Mapsなど)で「平賀源内墓」を検索してピンを頼りにすると確実です。

平賀源内墓は国の史跡に指定されていますが、こぢんまりとした場所で、観光名所というより歴史好き向けのスポットです。訪れる際は、源内の生涯や功績(エレキテル、本草学など)を思い出しながら見学すると感慨深いでしょう。



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