2025/03/18 17:31
田沼意次のお墓は、東京都豊島区にある勝林寺にあります。勝林寺は、臨済宗妙心寺派に属する寺院で、その起源は1615年(元和元年)に遡ります。田沼意次が亡くなった後、ここに葬られたとされています。具体的には、豊島区駒込7丁目に位置しており、東京メトロ南北線の駒込駅やJR山手線の駒込駅、巣鴨駅等からアクセスが可能です。
田沼意次は、1788年(天明8年)に失意のうちに亡くなり、その遺体は勝林寺に埋葬されました。彼の墓は現在も同寺の墓地内に残っており、歴史愛好家や研究者にとって訪れる価値のある場所となっています。
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で世界的俳優の渡辺謙さん演じる田沼意次(1719年9月11日~1788年8月25日)は、江戸時代中期の政治家で、老中として幕府の財政改革や経済政策に大きな影響を与えた人物です。彼は徳川家治(10代将軍)の時代に権勢を振るい、従来の武家政治とは異なる経済重視の政策を推進したことで知られています。以下に、彼の生涯と功績を詳しく説明します。
●田沼意次の生涯
1. 出自と初期
田沼意次は、1719年に紀州藩(現在の和歌山県)に生まれました。父は紀州藩士の田沼意行(おきゆき/もとゆき)で、比較的低い身分の武士の家系でした。意次が幼少の頃、父が紀州藩主・徳川吉宗(後に8代将軍)に仕えた縁で、田沼家は江戸幕府に取り立てられます。意次自身も徳川吉宗に見出され、若くして幕府に仕えることになりました。
1734年(享保19年)、15歳で吉宗の孫にあたる徳川家治(後の10代将軍)の小姓として仕え始めます。この時期から家治との信頼関係を築き、彼の側近としてキャリアを積んでいきました。
2. 出世と老中就任
家治が将軍に就任した1760年(宝暦10年)以降、意次は急速に出世します。1767年(明和4年)に側用人となり、幕府の実質的なナンバー2として権力を握りました。さらに1772年(安永元年)には老中に昇格し、幕政の最高責任者の一人となります。この頃、田沼は幕府の財政難を解消し、経済を活性化させるための大胆な改革を次々と打ち出しました。
3. 失脚と晩年
しかし、田沼の政策は商業重視や賄賂政治と結びつき、「腐敗政治家」という批判を受けるようになります。特に1783年(天明3年)の天明の大飢饉では、幕府の対応不足が国民の不満を招き、田沼への風当たりが強まりました。1786年(天明6年)、将軍家治が死去し、後を継いだ徳川家斉の下で松平定信(田沼の政敵)が台頭すると、意次は老中を罷免され失脚します。
1788年(天明8年)、失意のうちに70歳で亡くなり、前述の通り東京都豊島区の勝林寺に葬られました。
●田沼意次の功績
田沼意次の功績は、主に経済政策と社会改革にあります。彼の時代は「田沼時代」と呼ばれ、従来の農本主義から商業・貨幣経済への転換を象徴しています。
1. 商業と経済の振興
<株仲間の奨励>
商人たちが同業組合(株仲間)を結成し、独占的な取引を認める政策を推進。これにより、商業活動が活性化し、幕府に税収をもたらしました。
<新田開発と殖産興業>
農地の開拓や鉱山開発を奨励し、生産力の向上を図りました。特に銅山の開発や輸出政策は、日本の国際貿易に寄与しました。
<貨幣経済の重視>
従来の米本位制から貨幣経済への移行を進め、流通を活発化させました。ただし、これが物価高騰やインフレを引き起こす一因ともなりました。
2. 財政再建
田沼は幕府の慢性的な財政難を解消するため、積極的に新たな財源を模索しました。商人からの献金や賄賂を受け入れることも多く、これが後世に「汚職政治家」という評価を招く原因となりましたが、当時は実践的な財政運営として機能していました。
3. 文化・学問への影響
田沼は蘭学(西洋学問)の導入にも関心を示し、オランダとの交流を通じて新しい知識や技術を取り入れる土壌を整えました。この姿勢は、後の幕末維新期の開国につながる一つの布石とも言えます。
●田沼意次の評価
田沼意次の評価は二分されます。
【肯定的評価】
経済を近代化し、商業の発展を促した先見性のある政治家として称賛されます。特に、農本主義に固執せず柔軟な政策を展開した点は、後の日本経済の礎を築いたとされます。
【否定的評価】
賄賂政治や縁故主義が横行し、天明の大飢饉での失政が民衆の苦しみを増大させたとして批判されます。松平定信による「寛政の改革」は、田沼の政策を否定する形で進められました。
田沼意次は、江戸時代の枠組みの中で革新的な経済政策を試みた人物です。その功績は商業の発展や財政再建に貢献した一方で、汚職や失政のイメージも強く、毀誉褒貶が激しい政治家として歴史に名を刻んでいます。彼の墓がある勝林寺を訪れる際は、こうした激動の生涯を思い起こすのも一興かもしれません。
田沼意次と蔦屋重三郎の関係については、史実において直接的な接点や具体的なエピソードが明確に記録されているわけではありません。しかし、両者が活躍した「田沼時代」(18世紀後半の江戸時代中期)の歴史的背景から、彼らの間接的な関係性や影響を考えることができます。
1. 史実における関係性
田沼意次は、江戸幕府の老中として1772年(安永元年)から1786年(天明6年)まで実質的に幕政を主導し、商業や貨幣経済を重視する政策を展開しました。この時期は「田沼時代」と呼ばれ、商人や文化人が活躍しやすい自由な気風が醸成されました。一方、蔦屋重三郎は、1750年(寛延3年)に吉原で生まれ、版元(出版者)として浮世絵や戯作をプロデュースし、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった才能を見出して江戸の文化を牽引した人物です。
田沼の政策が商業を奨励したことで、蔦屋のような新興の文化商人にとって活動しやすい土壌が整ったと言えます。特に、田沼が推進した「株仲間」(商人に独占権を与え、税収を増やす制度)は、蔦屋が出版業で成功する背景に間接的に寄与した可能性があります。しかし、歴史資料には田沼と蔦屋が直接会ったとか、個人的なやり取りがあったといった記述は見られません。蔦屋が老中である田沼に直接接触するような身分でもなかったため、史実では二人の関係は「時代的な影響関係」に留まると考えられます。
2. 大河ドラマ『べらぼう』での創作エピソード
2025年の大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では、田沼意次(渡辺謙)と蔦屋重三郎(横浜流星)の関係がフィクションとして描かれています。例えば、第1話では、若き日の蔦屋重三郎が吉原の河岸女郎(遊女)の窮状を訴えるため、田沼意次の屋敷に潜り込んで直接対話する場面が登場します。このシーンでは、蔦屋が「ありがた山の寒がらすにございます」と機転を利かせて自己紹介し、田沼がその才気を認めるようなやり取りが描かれています。この「ありがた山」という言葉は、田沼の名前(意次=「おきつぐ」)と「ありがたい」を掛けた洒落で、ドラマらしいユーモアあるエピソードとして視聴者に印象を残しました。
また、後のエピソードでは、蔦屋が『青楼美人』という出版物を将軍に献上する策を思いつき、再び田沼と対面する場面も登場します。ここでも田沼が蔦屋を「ありがた山」の人物として覚えており、軽妙な会話が交わされるなど、二人の関係がドラマの中で重要な接点として創作されています。これらは史実に基づくものではなく、あくまでドラマのストーリーを盛り上げるための脚色です。
3. 歴史的エピソードの推測
史実に基づく具体的なエピソードがないため、間接的な視点から一つ推測してみます。田沼意次は、商業の発展を促す一方で賄賂政治のイメージが強く、商人たちとの交流も多かったとされます。蔦屋重三郎は吉原という遊郭で育ち、出版業で成功を収めた人物として、田沼時代の下で商才を発揮しました。もし田沼が吉原を訪れることがあったならば(老中としての公式訪問は考えにくいものの、私的な興味から訪れる可能性はゼロではない)、蔦屋がその才気で田沼の目に留まるような場面があったかもしれません。ただし、これはあくまで想像の域を出ません。
また、田沼失脚後の寛政の改革(松平定信による政策)で、蔦屋重三郎が1791年(寛政3年)に出版規制違反で処罰されたことは注目に値します。田沼時代の自由な気風が終わり、厳しい統制が敷かれたことで、蔦屋の活動が制限されたのです。このことは、田沼の政治が蔦屋の成功を間接的に支えていた証とも言えるでしょう。
史実では、田沼意次と蔦屋重三郎の直接的な関係を示す証拠はありませんが、田沼の商業重視政策が蔦屋の活躍を可能にした時代的背景は明らかです。大河ドラマでは、二人の出会いや軽妙なやり取りが創作され、田沼が蔦屋の才気を認めるエピソードが描かれています。例えば「ありがた山」のダジャレを交えた会話は、ドラマならではの魅力的な脚色です。歴史と創作を織り交ぜて考えると、田沼と蔦屋は「時代を超えた協力者」のような関係として楽しむことができるかもしれません。
田沼意次のお墓は、東京都豊島区にある勝林寺(東京都豊島区駒込7-4-14)にあります。ここでは、勝林寺への具体的な行き方を、最寄り駅からのアクセスを中心に詳しくご案内します。
1. 電車でのアクセス
勝林寺は最寄り駅から徒歩圏内にあり、いくつかの路線が利用可能です。
・東京メトロ南北線「駒込駅」
−徒歩約5分。
−南北線「駒込駅」で下車し、1番出口を出て、目の前の「本郷通り」を北へ(右方向)進みます。約200メートル直進すると、左手に「勝林寺」の入口が見えます。細い路地を少し入った場所にあるため、看板や地図アプリで確認すると確実です。
・JR山手線「駒込駅」
−徒歩約7分。
−JR「駒込駅」で下車し、北口を出て、「本郷通り」を北へ向かって進みます(駅を背にして直進)。約400メートル歩くと、左側に勝林寺の入口があります。南北線ルートとほぼ同じ道順です。
・JR山手線「巣鴨駅」
−徒歩約15分。
−JR「巣鴨駅」で下車し、北口を出て、白山通りを東へ進み、「本郷通り」にぶつかったら右折して北上します。約1キロメートル歩くと、右側に勝林寺が見えます。
2. バスでのアクセス
都営バスを利用すると、さらに近くまで行けます。
・池袋駅から
−バスで約15分+徒歩約3分。
−池袋駅東口から都営バス「池86系統 駒込駅南口行き」に乗車し、「駒込六丁目」バス停で下車(乗車時間約15分)。バス停から南へ徒歩約3分で勝林寺に到着。
3. 車でのアクセス
首都高速5号池袋線「護国寺出口」または「飯田橋出口」から約15分。
勝林寺には専用の駐車場が少ないため、近隣のコインパーキングを利用する必要があります。染井霊園周辺にいくつか駐車場があります。
勝林寺に到着したら、田沼意次の墓は境内(本堂近くまたは墓地エリア)にあります。案内板がない場合もあるので、寺務所で「田沼意次の墓を見たい」と尋ねると確実に案内してもらえます。
寺院訪問のため、静かに参拝し、派手な服装は避けてください。お線香やお供えを持参するのも良いでしょう。
勝林寺は染井霊園に隣接しており、近くには歴史的なスポットが点在します。併せて散策するのもおすすめです。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で田沼意次役を演じる渡辺謙さんを想像しながら、お墓参りするのも一興でしょう。
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