2025/03/25 21:58
松平定信(1759年1月25日~1829年6月14日)のお墓は、東京都江東区白河にある霊巌寺(れいがんじ)にあります。霊巌寺は浄土宗の寺院で、江戸時代から多くの著名人が埋葬されており、松平定信の墓もその一つとして保存されています。松平定信は陸奥白河藩(現在の福島県白河市)の第3代藩主であり、霊巌寺が位置する江東区白河の地名は、松平定信が老中を退いた後、白河藩主としての功績を記念して付けられたとする説があります(江東区の歴史資料による)。そのような縁から霊巌寺が墓所に選ばれたと考えられています。
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で天才子役として知られた寺田心さん演じる松平定信(青年期)は、江戸時代中期の大名、政治家であり、徳川幕府の老中として「寛政の改革」を主導した人物です。彼は白河藩(現在の福島県白河市)の第3代藩主であり、田沼意次の商業重視の政策を批判し、幕府の政治を農本主義や儒教的秩序へと回帰させる改革を行ったことで知られています。以下に、彼の生涯と功績を詳しく説明します。
●松平定信の生涯
1. 出自と初期
松平定信は、1759年(宝暦8年)に江戸で生まれました。父は御三卿の田安徳川家の初代当主徳川宗武、母は香詮院。幼名は賢丸(まさまる)で、幼少期から聡明さが際立っていました。
1774年(安永3年)、徳川家治の命により白河藩主松平定邦の養子となり、1783年(天明3年)、松平定邦の死去に伴い、第3代白河藩主の家督を継ぎました。しかし、藩財政が困窮していたため、若くして厳しい状況に直面します。
2. 幕府での出世と老中就任
定信は、徳川家治(10代将軍)の時代に幕府に出仕し、1783年(天明3年)に西の丸老中に就任します。この時期、田沼意次が老中首座として幕政を主導していましたが、天明の大飢饉(1782-1788)による社会不安や田沼の賄賂政治への批判が高まっていました。1786年(天明6年)に家治が死去し、11代将軍徳川家斉が就任すると、田沼が失脚。翌1787年(天明7年)、定信は老中首座に昇格し、幕府の実質的な最高権力者となりました。
3. 寛政の改革とその後
老中首座として、定信は1787年から1793年(寛政5年)まで「寛政の改革」を推進します。しかし、改革は保守的で厳格すぎるとして商人や農民からの反発を招き、将軍家斉の側近との対立も深まりました。1793年、定信は老中を辞任し、白河藩主としての生活に戻ります。
晩年は政治から退き、学問や著述に専念。1829年(文政12年)に71歳で死去し、東京都江東区白河の霊巌寺に葬られました。
●松平定信の功績
松平定信の最大の功績は、「寛政の改革」による幕府の立て直しと社会秩序の再構築です。彼の政策は田沼意次の経済重視路線を否定し、伝統的な武家政治と農本主義を重視するものでした。
1. 寛政の改革(1787-1793)
<棄捐救恤令(きえんきゅうじゅつれい)>
天明の大飢饉で困窮した旗本や御家人に対し、借金の帳消しや救済金を支給。幕府の財政負担が増えたものの、武士階級の支持を得ました。一方で貸金業者に大きな負担を強いるものでもありました。
<出版統制と風紀粛正>
田沼時代に栄えた浮世絵や戯作(娯楽文学)を規制し、儒教的道徳を重視。蔦屋重三郎のような版元が処罰されるなど、文化面での締め付けが強まりました。
<囲米(かこいまい)制度>
幕府や諸藩に米を備蓄させ、飢饉に備える政策。災害時の食糧供給を安定化させました。
2. 財政再建と幕府の強化
田沼時代に膨張した幕府の財政赤字を抑えるため、倹約令を出し、奢侈(しゃし:【意味】必要な程度や身分を越えたぜいたく)を禁じました。また、老中としての権限を強化し、幕府の統治力を回復させようとしました。
3. 白河藩の治世
藩主としても優れた手腕を発揮し、白河藩の財政再建や領内の開発に尽力。農業生産の向上や新田開発を進め、藩の基盤を固めました。
●松平定信の評価
【肯定的評価】
寛政の改革は、幕府の混乱を収拾し、武士階級の秩序を回復したとされます。特に飢饉対策や教育振興は、後世に一定の影響を与えました。また、定信の清廉潔白な人柄や学識は「楽翁公(らくおうこう)」として称賛されました。
【否定的評価】
改革が保守的で柔軟性に欠け、商人や民衆の反発を招いた点が批判されます。出版規制や蘭学の抑圧は、文化の発展を阻害したとも言われます。また、改革の効果が一時的で、幕府の根本的な衰退を防げなかったとの見方もあります。
松平定信は、田沼意次の失政を正し、幕府の秩序を再構築した政治家として歴史に名を刻みました。寛政の改革は成功と失敗が混在するものの、彼の清廉な姿勢と学問への貢献は高く評価されます。お墓が霊巌寺にあることを訪れる際は、彼の激動の生涯や改革の意義を思い起こしてみると、より深い理解が得られるでしょう。
松平定信と蔦屋重三郎の関係は、直接的な個人的な交流があったという記録は乏しいものの、歴史的背景と彼らの活動が交錯する点で興味深い接点があります。松平定信は「寛政の改革」を主導した老中であり、蔦屋重三郎は田沼時代に栄えた出版文化を牽引した版元(出版者)です。両者の関係は、主に定信の政策が蔦屋の活動に影響を及ぼしたという形で現れます。以下に、その関係性とエピソードを詳しく説明します。
1. 歴史的背景と関係性
<松平定信の立場>
松平定信は、1787年(天明7年)から1793年(寛政5年)まで老中首座として幕政を主導し、「寛政の改革」を実施しました。この改革は、田沼意次の商業重視・自由放任的な政策を否定し、儒教的秩序と農本主義を重視するものでした。特に、田沼時代に花開いた浮世絵や戯作(娯楽文学)などの文化を「風紀を乱す」として厳しく規制しました。
<蔦屋重三郎の立場>
蔦屋重三郎(1750-1797)は、吉原で生まれ育ち、田沼時代(1770年代~1780年代)に版元として大成功を収めた人物です。彼は喜多川歌麿や東洲斎写楽といった浮世絵師をプロデュースし、黄表紙(戯作の一種)を出版するなど、江戸の娯楽文化を牽引しました。田沼の商業奨励政策がもたらした自由な気風が、蔦屋の活動を支えていたと言えます。
<寛政の改革による影響>
松平定信の改革が始まると、蔦屋重三郎の活動は大きな打撃を受けます。定信は、出版物の内容を厳しく検閲し、風俗を乱すとみなした作品を禁じました。この政策により、蔦屋は1791年(寛政3年)に処罰される事件に直面します。この出来事が、二人の間接的な関係を象徴するエピソードとして知られています。
2. 具体的なエピソード:蔦屋重三郎の処罰(1791年)
1791年(寛政3年)、蔦屋重三郎は、幕府が禁止した内容を含む黄表紙を出版したとして摘発されました。問題となったのは、山東京伝(蔦屋が支援した戯作者)が執筆した黄表紙『箱入娘面屋人魚』、洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』などの作品で、当時の権力者や風俗を風刺した内容が含まれていたとされます。松平定信の改革方針のもと、こうした出版物は「社会秩序を乱す」として厳しく取り締まられました。定信は田沼時代に自由奔放に発展した文化を抑圧し、儒教的道徳を国民に浸透させることを目指していました。蔦屋の出版活動は、そのターゲットの一つとなったのです。
<処罰の内容>
蔦屋は財産の半分を没収され、山東京伝は手鎖(てじょう)50日の刑に処されました。
この事件で、蔦屋の事業は大打撃を受け、彼の版元としての勢いは衰えました。一方で、蔦屋はその後も出版を続け、歌麿や写楽との協力を維持するなど、完全には屈しませんでした。しかし、寛政の改革による締め付けは、江戸の娯楽文化全体に冷や水を浴びせる結果となりました。
3. 直接的な関係の有無
史料には、松平定信と蔦屋重三郎が直接会った、あるいは個人的にやり取りしたという明確な記録はありません。定信は老中として幕府の中枢にいた高位の武士であり、蔦屋は商人階級の版元でした。身分制度の厳しい江戸時代において、両者が直接対面する機会はほとんど考えられません。しかし、定信の政策が蔦屋の人生に大きな影響を与えたことは確かで、間接的な「対立関係」として歴史に刻まれています。
松平定信と蔦屋重三郎の関係は、直接的な交流よりも、定信の「寛政の改革」が蔦屋の活動を制限したという歴史的文脈で理解されます。特に1791年の処罰事件は、定信の政策が蔦屋に与えた具体的な影響を示すエピソードとして重要です。定信が田沼の遺産を否定する中で、蔦屋はその犠牲者の一人となり、二人は時代を反映する対照的な存在として歴史に残りました。ドラマでの創作も含めて考えると、彼らの関係は「改革者と文化人」の衝突として興味深い視点を提供してくれます。
松平定信のお墓は、東京都江東区にある霊巌寺(れいがんじ)にあります(東京都江東区白河1-3-32)。ここでは、霊巌寺への具体的な行き方を、最寄り駅からのアクセスを中心に詳しくご案内します。
1. 電車でのアクセス
・東京メトロ半蔵門線 / 都営大江戸線「清澄白河駅」
−徒歩約5分。
−A3出口(半蔵門線)またはB2出口(大江戸線)を出ます。どちらも清澄通り沿いに出るので便利です。出口を出たら、清澄通りを南へ(右方向)進みます。約200メートル歩くと、左手に「霊巌寺」の入口が見えます。清澄庭園のすぐ近くで、門前に案内板があるので分かりやすいです。
・都営新宿線「森下駅」
−徒歩約15分。
−「森下駅」で下車し、A6出口を出ます。出口を出たら、清澄通りを南東へ(清澄白河方面)進みます。約1キロメートル直進し、清澄庭園を過ぎたあたりで右側に霊巌寺の入口が見えます。
2. バスでのアクセス
・東京駅から
−バスで約20分+徒歩約3分。
−東京駅丸の内北口から都営バス「東20系統 江東車庫前行き」に乗車し、「清澄庭園前」バス停で下車(乗車時間約20分)。バス停から北へ徒歩約3分で霊巌寺に到着。
3. 車でのアクセス
首都高速7号小松川線「錦糸町出口」から約10分。
霊巌寺には専用の駐車場がありません。周辺のコインパーキング(清澄白河駅近くに複数あり)を活用してください。
霊巌寺に到着したら、松平定信の墓は本堂の左側にあります。国指定史跡(1928年指定)で、「故白河城主楽翁公之墓」と刻まれた墓石が目印です。案内板がある場合もありますが、寺務所で「松平定信の墓を見たい」と尋ねると確実に案内してもらえます。霊巌寺は清澄庭園や深川江戸資料館に近く、観光を兼ねて訪れるのもおすすめです。
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