2025/04/11 21:58
朋誠堂喜三二(1735年5月13日~1813年6月18日)のお墓は、東京都江東区三好にある「玄龍山 一乗院」にあります。一乗院は日蓮宗の寺院で、創建は寛文10年(1670年)とされ、約350年の歴史を持つとされています。寺号の「玄龍山」は、霊的な力を持つ龍を象徴する山号として名付けられた可能性があり、日蓮宗の教えに基づく信仰の場として地域に根付いてきました。
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で若い頃から個性的な存在感を示し、『転校生』での繊細な演技で注目を集めた尾美としのりさん演じる朋誠堂喜三二(本名:平沢常富[ひらさわ つねとみ])は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した日本の戯作者(げさくしゃ)、狂歌師であり、秋田藩(出羽国久保田藩)の定府藩士でもあった人物です。1735年(享保20年)に生まれ、1813年(文化10年)に79歳で没するまで、武士としての公務と文芸活動を両立させ、江戸の庶民文化に大きな足跡を残しました。彼の生涯と功績は、ユーモアと知性、そして多才さに溢れたもので、当時の文化史において特筆すべき存在です。
●朋誠堂喜三二の生涯
1. 幼少期と出自
朋誠堂喜三二は1735年、江戸に生まれました。父は江戸の武士・西村久義(平六)で、幼い頃から俳諧や剣術を学び、神童と称されるほどの才能を示しました。14歳の時(1748年、寛延元年)、母方の縁戚である秋田藩士・平沢家の養子となり、平沢姓を継ぎました。平沢家は愛洲陰流剣術の祖・愛洲移香斎の子孫とされる由緒ある家系で、彼は武士としての基盤を築きます。
2. 武士としてのキャリア
秋田藩の定府藩士として、江戸で留守居役を務めました。留守居役は藩主が不在時に江戸藩邸を守り、幕府や他藩との交渉を担う重要な職で、彼は御小姓、御勝手世話役、御刀番などの役職を経て昇進。1778年(安永7年)に留守居助役、1784年(天明4年)には留守居役筆頭となり、藩の重役として活躍しました。公務では吉原にも出入りし、情報収集や社交の場として活用していました。
3. 文芸活動の開始
武士としての生活と並行して、1773年(安永2年)に戯作デビュー作『当世風俗通』を発表。金錦佐恵流という筆名で、吉原の風俗や「通(つう)」な振る舞いをユーモラスに描き、庶民から支持を得ました。その後、1777年(安永6年)の黄表紙『親敵討腹鞁(おやのかたきうてやはらつづみ)』が大ヒットし、人気作家としての地位を確立します。また、「手柄岡持(てがらのおかもち)」などの狂名で狂歌師としても活動し、多様な文芸分野で才能を発揮しました。
4. 晩年と終焉
1791年(寛政3年)の寛政の改革で戯作への規制が強化され、活動が制限される中、彼は文芸からやや距離を置きます。それでも、生涯を通じて多くの作品を残し、1813年(文化10年)に江戸で亡くなりました。享年79歳。
●朋誠堂喜三二の功績
<戯作における革新>
朋誠堂喜三二は、黄表紙や洒落本といった戯作で独自のスタイルを確立しました。『当世風俗通』では吉原の文化を軽妙に描写し、『親敵討腹鞁』では仇討ちという深刻なテーマをナンセンスな笑いに転化。風刺と滑稽さを織り交ぜた彼の作品は、当時の読者に新鮮な娯楽を提供し、江戸庶民のユーモア感覚を反映するものとして高く評価されました。
<出版文化への貢献>
版元・蔦屋重三郎との協力関係を通じて、彼の作品は広く流通しました。特に蔦屋のプロデュース力と喜三二の文才が結びつき、黄表紙や洒落本の商業的成功を支えました。この連携は、後の喜多川歌麿や山東京伝の活躍にもつながる基盤となり、江戸の出版文化の発展に寄与しました。
<多才な文化人として>
戯作だけでなく、狂歌や俳諧でも活躍し、「楽貧王」「道陀楼麻阿」などの筆名を使い分けた彼は、多面的な才能の持ち主でした。吉原での経験を活かし、「宝暦の色男」を自称するほどの粋人(つうじん)ぶりも、彼の魅力を際立たせています。武士と文人を両立させた稀有な生き方は、後世に独特の個性として語り継がれています。
朋誠堂喜三二は、堅苦しい武士社会の中で遊び心と知性を保ち、公務と創作を両立させた異色の人物です。彼の作品は庶民の暮らしや価値観を生き生きと伝え、江戸時代の文化史に貴重な資料を提供しています。また、現代的なセンスや柔軟性を持つ彼の姿勢は、時代を超えて共感を呼び、文学や歴史研究において注目される存在です。江戸の「粋」を体現した彼の生涯は、今なお魅力的な物語として輝いています。
朋誠堂喜三二(平沢常富)と蔦屋重三郎は、江戸時代の出版文化において重要なパートナーシップを築いた人物で、作家と版元としての関係を超えた深い結びつきがありました。喜三二は戯作者として人気を博し、重三郎は当時を代表する版元として浮世絵や黄表紙、洒落本の出版で名を馳せました。両者は1770年代から1780年代にかけて協力し合い、江戸の庶民文化に大きな影響を与えました。ここでは彼らの関係性と、具体的なエピソードを交えて説明します。
1. 関係性
朋誠堂喜三二(平沢常富)と蔦屋重三郎の関係は、1770年代(安永年間)に始まったとされています。喜三二が戯作デビュー作『当世風俗通』(1773年)を発表した頃、重三郎は吉原細見や浮世絵の出版で成功を収めており、新たな才能を求めていました。喜三二のユーモアと風刺に富んだ作品は、重三郎の「粋で斬新なもの」を追求する出版方針に合致し、二人は自然と手を組むことになります。特に、重三郎が版元として刊行した喜三二の黄表紙『親敵討腹鞁』(1777年)は大ヒットし、彼らの協力関係を象徴する作品となりました。
この関係は単なるビジネスに留まらず、吉原という共通の文化圏での交流や、互いの才能を認め合う信頼感に支えられていました。喜三二が秋田藩の留守居役として吉原に出入りし、そこで得た見聞を作品に反映させたことは、重三郎にとって魅力的なコンテンツの源泉でした。一方、重三郎の優れたプロモーションと出版技術は、喜三二の名声を高める原動力となり、双方にとってWin-Winの関係だったと言えます。
2. エピソード
<『親敵討腹鞁』の成功と裏話>
喜三二の代表作『親敵討腹鞁(おやのかたきうてやはらつづみ)』(1777年)は、親の仇討ちという武士道のテーマを滑稽に描いた黄表紙で、重三郎が版元として出版しました。この作品は、仇討ちを果たすために腹鼓を打つというナンセンスな展開が読者に大ウケし、江戸中で話題となりました。重三郎はこれに挿絵を組み合わせ(おそらく北尾重政の挿絵)、視覚的な面白さを加えて売り出し、商業的成功を収めました。
この出版の裏には、喜三二と重三郎の打ち合わせがあったと想像されます。喜三二が「もっと笑える要素を入れよう」と提案し、重三郎が「挿絵で動きを出せば売れる」と応じたようなやり取りがあったかもしれません。重三郎の店舗(日本橋付近)で、二人が酒を酌み交わしながらアイデアを出し合った姿を想像すると、彼らのクリエイティブな絆が垣間見えます。この成功が、重三郎の事業拡大と喜三二の作家としての地位確立につながりました。
<吉原での交流>
喜三二は留守居役として吉原に通い、「宝暦の色男」を自称するほどの遊び人でした。一方、重三郎は吉原細見の出版で遊郭文化に深く関与しており、吉原は二人の共通の「仕事場」でもありました。ある時、喜三二が吉原で遊女や客から聞いた話を重三郎に持ち込み、それが『当世風俗通』のネタになった可能性があります。重三郎が「常富さん、昨夜の吉原の話、面白すぎるよ。次はこれで一冊頼むよ」と笑いながら依頼する場面は、彼らの気さくな関係を物語るエピソードとして想像できそうです。
<寛政の改革での試練>
1791年(寛政3年)、寛政の改革による出版規制が厳しくなると、重三郎は過激な内容の出版に関与したとして財産没収の処罰を受けます。この時、喜三二の戯作も幕府の目につきやすくなり、活動が制限されました。重三郎が失脚した際、喜三二が「重三郎がやられたか…これからは慎重にやらねば」とつぶやきつつも、彼を見捨てずに何らかの形で支えた可能性があります。直接的な記録はありませんが、二人の長年の信頼関係から、喜三二が重三郎の再起を願っていたことは想像に難くありません。
喜三二と重三郎の関係は、喜三二の文才と重三郎の商才が融合したものでした。重三郎は喜三二を単なる作家としてではなく、吉原通の情報源や文化人として尊重し、喜三二は重三郎の出版ノウハウに全幅の信頼を寄せていました。この協力により、江戸の庶民文化が豊かになり、後の喜多川歌麿や山東京伝の活躍にもつながる土壌が育まれました。
エピソードからは、彼らが互いに刺激を与え合い、時には笑いながら創作に励んだ姿が浮かびます。喜三二の「粋」と重三郎の「商魂」が交錯する中で生まれた作品群は、江戸時代の出版史に輝く一ページとして今も評価されています。
朋誠堂喜三二(平沢常富)のお墓は、東京都江東区三好にある一乗院(いちじょういん)にあります(東京都江東区三好1-3-18)。ここでは、一乗院への具体的な行き方を、最寄り駅からのアクセスを中心に詳しくご案内します。
1. 電車でのアクセス
・東京メトロ半蔵門線 / 都営大江戸線「清澄白河駅」
−徒歩約5分。
−A3出口を出て、清澄通りを門前仲町方面(南東方向)へ直進します。約300メートル進むと、左手に三好1丁目の交差点が見えます。その付近で左に曲がる細い道(一方通行路)に入ります。道なりに約120メートル進むと、右側に一乗院の入口が見えます。
・東京メトロ東西線 / 都営大江戸線「門前仲町駅」
−徒歩約12分。
−6番出口を出て、清澄通りを清澄白河方面(北西方向)へ直進します。約800メートル進むと、右手に三好1丁目の交差点付近で右に曲がる細い道があります。その道を入って道なりに進むと、一乗院に到着します。
2. バスでのアクセス
・亀戸駅から
−バスで約20分+徒歩約3分。
−亀戸駅から都営バス「門33系統 豊海水産埠頭行き」に乗車し、「清澄庭園前」バス停で下車(乗車時間約20分)。バス停からから清澄通りを少し戻り、三好1丁目付近の細い道を左に入ります。道なりに進むと一乗院に到着します(徒歩約3分)。
3. 車でのアクセス
清澄白河駅近くの「清澄3丁目」交差点から清澄通りを門前仲町方面へ進みます。
2つ目の信号(右カーブの手前)で、左側の一方通行路に鋭角に左折します。
道なりに約120メートル進むと、一乗院の敷地に到着します。
駐車場は一乗院の本講堂付近にあり、そこから墓地案内所までは徒歩約130メートルです。
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